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開花

My Life story

​ーマイライフストーリー

マイライフストーリーについて

 

わたしは人から「自分を持っていて揺るがない」「表情豊か」「おもしろい」などと言われることがあるのですが、幼少期を中心に苦しいこと・大変なことが多く、ここまでの人生では生きづらさを感じていた時間の方が長かったです。

わたし的人生三大苦―①お金に苦労する幼少期 ②転職後のメンタル不調 ③不妊→産後うつ傾向―は、それぞれとてもしんどいものでした。一方で、確実にいまのわたしを創っています。この人生だったからこそ、「自分の」幸せを1人1人が大切にしてほしいと考えるようになりました。

これを読んでわたしをより知ってもらえたり、ほんの少しでも誰かを勇気づけることにつながればという想いで書いてみます。

​人生曲線
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01. 〜中学時代:人のことを優先 「いい子」のはじまり

1979年の1月2日に生まれました。クリスマスもお正月も誕生日も一緒になるので「普通の日の誕生日」に憧れていました。

3歳になるころに弟が生まれ、調理師の父、専業主婦の母と弟の4人で東京の世田谷区に住んでいました。世田谷在住=お金持ちと言われることがありますが、我が家はさしてお金に余裕があるわけでもなく、小さいころは1Kのアパート暮らし。20歳を過ぎるまで自分の部屋を持ったことはありませんでした。本を読むのが大好きで、将来はアナウンサーになりたいと思っていました。

わたしが小学校へ上がると、母がパートに出るようになりました。

父は早朝に出勤し、夕方には帰宅するスタイルだったので、帰宅後に母が出勤。

フルタイムではないので弟を保育園に預けるのは難しかったでしょうし、「学校から帰った時にいられるように」との想いもあったようです。

当時、弟はまだ3歳。まだまだお世話が必要な時期。(わたしだって6歳だけど)

朝が早い父は休む時間も早いため、わたしが弟の面倒を見ることも多くありました。

熱が出ればタオルで冷やし、学校に持っていくもののお名前付けをしたこともありました。一緒に大騒ぎすることももちろんありましたが、姉というよりは、もう1人のお母さん気分。「ちゃんとやらなくては」と気が張っていたように思います。わたしの結婚式で弟は号泣し、「半分は姉ちゃんに育てられた」と感謝の意を伝えてくれました。

 

この環境に加え、父はお酒を飲み過ぎたり、ギャンブルして借金したりするところがありました。給料をほとんど入れない時もあったし、借金の督促の電話がかかってきて、その対応をすることもよくありました。そんな中でわたしは自然と「父みたいになってはいけない。わたしはちゃんとしていなければ」「人に迷惑をかけて母を心配させてはいけない」と思うようになっていきました。自分の家庭環境に恥ずかしさもあったと思います。

だから、空気を読み、勉強もちゃんとして、お金がかかることは我慢。子どもらしさはどこかに置き忘れ、「周りからちゃんとした人に見えているか」が大事でした。周囲の大人からはほぼ100%「しっかりしている」と言われましたが、それはあまりうれしいことではありませんでした。

反面、はっきりとした物言いや振る舞いは子どものころからも発揮されていました。

小2の家庭訪問で当時ロングヘアーだったわたしに担任の先生が「プールも始まるし、髪を切ったらどうですか?」と提案してくれた時、きっぱりと「イヤです」と回答。母が未だにこの話をマネしながら話すほどの「きっぱり」だったようです。

「言われたとおり、決められたとおりにする」のが好きではない面があり、中学生になって「スカートは膝下に」と言われれば膝上に、ゴムは黒か紺と言われれば赤をつけるようなことも。高校もなるべく校則が厳しくないところを志望していました。

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02. 高校時代:「将来困らない」将来を考える子

地元の中学校を卒業した後は、都立高校へ進学しました。

同時に、ファーストフード店でのアルバイトも始めます。自分で自由に使えるお金がほしいと思っていました。父の「アルバイトなんてするのか?」の声かけにひどい反抗期だったわたしは「じゃあ、月に3万円お小遣いくれるの?」と言って父を黙らせていました。まともに会話をすることはとても少なかったと思います。

最初は大きな声で「いらっしゃいませ」と言うのが恥ずかしくて、恥ずかしくて…。後に先輩に「この子続くのかな?と思った」と言われましたが、大学を卒業するまで7年間続けました。働いてお金をもらうという原体験です。フライドチキンをご提供する本数を間違えてお客様からフライドチキンを投げ返される、という衝撃的な出来事(!)も経験しましたが、この7年間で多くのことを学びました。今でも役に立っていると思うことは、常にその場全体で何が起こっているかを捉える力です。レジで接客をしながら、隣のレジの入社間もない人のサポートをし、空調やB G Mの音量は適切か、お席へお届けする商品の出来上がりタイミングはそろそろかな…と常に俯瞰的にいることがトレーニングされました。また、いつもお客様を前にしているので、忙しくて心が慌てていても見えている部分は動じないようにするというのもこの経験の中で伸ばされたように思います。

部活は陸上部にマネージャーとして所属していましたが、ほぼ幽霊部員。でも、なぜか後輩たちが慕ってくれて「まゆみ先輩、聞いてくださいよ〜」と相談を受けることがよくあり、後輩とは仲良くしていました。よく相談を受けるというのはこれに限らずその後にもよくある話で、コーチになってからも「こんなことまで話すつもりじゃなかった」と言われることもあり、つい話したくなってしまう何かを持っているようです。

 

相変わらずちゃんとしている子だったので、高2になったころから進路・進学について考え始めていたと思います。ただ、残念ながらその基準は「やりたいこと」ではなく、「興味がある+将来困らないもの」でした。父のようになってはいけない、と当時も考えていたので就職に直結する資格が取れるところへ進学をと考えました。

子どものころからのアナウンサーへの憧れは当時もまだありましたが、「現実的ではない」と却下。子どもが好きだったので幼稚園の先生をと思ったものの「ピアノ弾けないし、これから少子化だし」と却下。「これからは高齢化だから、福祉の仕事がいいかも」と相談援助をする社会福祉士の資格を取るために大学に進学しようと決めました。今なら全然響かない選択の仕方です…。ただ、ソーシャルワーカーやカウンセラーになりたいと思っていた時期もあり、「人の話を聴く」ことへの関心は当時からあったようです。

 

でも、この大学進学のプロセスがひとつ大きな学びをもたらしました。

高3になり、後に進学した東洋大の社会福祉学科が初めての推薦入試を実施することを知ります。そこに書かれた定員は7名。それを見てすぐに「わたしにはムリだ」と思いました。そう思ったことをたまたま友人に話すと「でも、出してみないとわかんなくない?」と言われ、「それもそうだな」と受験してみることにしました。書類審査を通過し、臨んだ小論文試験。テーマは高齢者福祉。試験直前にたまたま高齢者福祉の本を読んでおり、バッチリ書けてしまいました笑。結果合格し、友人は「感謝しろよ〜」と今でも笑います。

「あきらめたらそこで終わり。何ごともやってみないとわからない」これがこの経験での学びです。

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03.  大学入学:「真剣に」遊ぶことを知る

片道90分かかる大学生活がスタートしました。「ちゃんと」資格を取るために大学に入学したわたしがそこで出会ったのは実に多様な人たち。サークルに入ったことでいろんな学部の友人ができましたが、彼らはひとり暮らししている誰かの家に集まっては毎日大騒ぎして、授業もマジメに出ないこともザラ。衝撃でした。

わたしにとって大学での学びとても興味深く授業にはまじめに出席していましたが、一方で大学時代の友人たちとのバカ騒ぎは枚挙に暇がありません。真剣に勉強するし、真剣に遊ぶ、とても充実した毎日でした。

それまでのわたしは「未来に困らないため」に生きていて「今この瞬間」を味わうことはとても少なかった。でも、彼らは「今」を思いっきり楽しんでいて、わたしもそれを知ることができた時間。人からちゃんと見られることばかり気にしていて子どもらしくいた経験が少なく、緊張感いっぱいに生きていた自分が緩むことを知った時間でもありました。

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金平糖

04. 就職活動:「わたしが選んでやる!でも、どこで何がしたい??」

 

大学3年生になり、就職に意識が向くようになりました。社会福祉学科の学生の多くは社会福祉施設など社会福祉の現場へ就職します。わたしは、社会福祉を学問として学ぶことにはおもしろさを感じていたものの、現場で働くことは今ひとつイメージできないでいました。そんなわたしの心を知ってか知らずか、ある日ゼミの担当教員から「お前は、一般企業だな」と言われたのです。それを聞いて自分自身もものすごく納得をして迷いが消え、一般企業に絞って就職活動を開始しました。

 

活動を始める際に2つのことを考えていました。

一つは、「結婚しても、出産しても仕事は続けたい」ということ。

もう一つは「選ばれるんじゃなくて、わたしが選ぼう」ということです。

なんとも生意気ですが、長く働くところを納得して自分で決めたいと考えていました。

相手からも中身を見てほしいと思っていたし、そもそもみんな同じ格好をすることに違和感もありました。そのため、友人のように髪を黒く染めることも、就活用にバッグや靴を買うこともしませんでした。「そんなところ見て落とす会社なら、こっちから願い下げだね」と本気で口にしていました…。そして、会社説明会などで人事の方を見ては「会社の顔があれじゃあね」などとも。あぁ恐ろしい。でも、とてもわたしらしくて、大事なことに気づいていたなとも思います。

 

でも、活動する中でとても困ったことがありました。

自分が「何をしたいのか」や「自分の強み」などわたし自身についてがわからないこと、そしてとんでもなく自信がないことです。だから、志望の業界や職種もぼんやりした視界不良の中で活動していました。市場もあまりよくない時だったので、全然選考が進みませんでした。

これまで周りからどう見られるかを優先して自分に対して意識を向けたことが少なかったため、自分のことがよくわからないという状態が発生していました。しかも、当時はその原因には気づいていないため、どうすればいいかもわかりませんでした。そんな風にぐるぐるモヤモヤする中で「わたしって本当は何がしたいんだっけ?」という疑問が湧き上がってきます。

 

今の延長線上で活動を継続していてはいけない、それだけはわかりました。そこで、その後の就活の予定をすべて白紙に戻し、原点に戻ってまずは就職課へ行くところからスタートしました。子どもや福祉に興味があることを再認識する中、たまたま見つけた福祉業界関連の本の中で、最初の就職先となったアップリカとの出会いがありました。「赤ちゃんのため」を考えてベビー用品を作っているその会社は、元々子どもが大好きなわたしにとても魅力的に映りました。幸運にも選考は終了しておらずエントリーすると順調に進み、役員面接の機会を得ました。わたしは緊張しないように本を読んで待っていました。それを面接官の副社長がご覧になっていたようで、彼がわたしにした唯一の質問は読んでいた本についてでした。「あ、聞くことないんだな…」と思ったのですが、ご縁があったようで内定をいただくことができました。他の内定先と迷いながらも自分の直感はアップリカだと言っていたのでそれに従って決め、就職活動が完了しました。4年生の8月になっていました。

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 05. 就職:人生を変える上司との出会い

 

2001年春、アップリカ葛西株式会社(現 ニューウェルブランズ・ジャパン合同会社)へ入社しました。ベビーカーやチャイルドシートなどを販売するメーカーで、今もつながりのある愛すべき10人の同期がいました。

 

入社前は「営業か事務での配属」と言われていましたが、所属支社へ出社すると「待ってたよ!」と当然のように営業の配属になりました。就職活動をしていた時は、営業職は全く視野に入れていませんでしたが、入社前に女性の営業職の先輩から話を聞く機会をいただいていました。その先輩は、百貨店向けブランドの商材を担当されていて、とてもやりがいを持ってお仕事をされている方でした。また、商品のファッション性が高く、とにかくかわいい!おしゃれ!!おしゃれ大好きなわたしは、営業としてぜひ関わってみたいと考えており、営業配属であることもすんなり受け取ることができました。きっとこんな流れでなければわたしが営業職を経験することはなかったのではないかと思います。

 

そして、入社を機に、わたしの人生にとても大きな影響を与える人と出会います。わたしの人生初上司Tさんです。当時、その方はまだ30代だったと記憶していますが、彼はとても頭の回転が早く、バイタリティに溢れた方。百貨店ブランドを立ち上げた人でもありました。

 

とにかくこの上司、すごいのですが、まずは入社3ヶ月後の配属の時。

わたしと同期1人を呼び、「一人は量販店担当、もう一人は百貨店担当になってもらう。二人でよく話し合って決めて」と言ったのです。後に聞けば「やりたいことをやってほしい」という意図だったそうなのですが、その時は「配属を自分たちで決めるんだ…」と二人で面食らいました。話し合ったのち、わたしは百貨店を担当したいことを上司へ伝えると「決めたからには、覚悟してやれよ」と言われ、自分で決断したことへの責任を感じたのを覚えています。今にしてみれば、この経験はとても特別で幸せなことですよね。

 

さらに、この上司のすごいところは、配属にあたってわたしに「新人でも大きな担当を持たせるからな」とチャレンジする機会を作ってくれたことに加えて、こんなことを言います。

「好きにやってこい!責任は全部オレが取ってやる!」

これは、わたしにとって本当に勇気づけられる言葉でした。そう言われると「絶対に責任を取らせるなんてことはしないようにがんばろう!」と全力で仕事に取り組むことができました。営業職としての経験はうれしいこともあった反面、たくさん失敗し胃が痛くなる経験も多かったですが、自分で決めて自由にやらせてもらえるその環境はわたし自身に合っていて、とても成長もさせてもらったと思います。

 

当時は気づいていませんでしたが、上司はわたしの可能性を信じてくれていました。だから、任せてくれたんですよね。可能性を信じられると人がどれほど力を発揮することができるのか、身を持って体験した時間でした。

 

会社というよりはサークルみたいな雰囲気で社員の仲がよく、新しい命の誕生という幸せな時期に自社の商品で彩りを添えられることは喜びでした。

ただ、仕事をしていく中で百貨店の直営店マネジメントをした経験などから「もっと深く人にかかかわる仕事がしたい」と考えるようになり、営業としての4年間の経験を終え、転職を決意します。

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A lot of balloons start they flight over

 06. 転職:笑えない、食べられない 人生どん底のメンタル不調

 

26歳で株式会社ベネッセコーポレーションへ転職をします。担当することになったのは、通信教育事業の進研ゼミ小学講座で添削問題の採点や指導をする「赤ペン先生」と呼ばれる方々のマネジメント業務です。具体的には、品質やモチベーションが維持・向上できるよう研修の企画・実施、採用〜研修、日々のコミュニケーションから生産性に関連することなど多岐に渡りました。

 

転職してみると、「会社」と名のつくものでもこうも違うのか…と思い知りました。

職種の違いもあったと思いますが、前職が「とりあえずやってみて」だとしたら、新しい職場は「よく考えてやって」でした。ちゃんとしてました笑

考えてみればそれもそのはず。小学講座だけでも1万人近い赤ペン先生が在籍していました。商品は教科書に準拠した学習教材の添削指導です。「とりあえずやって」なんてことをしたら…大変なことになります。

でも、入社直後のわたしは客観的にそれを理解する余裕はなし。とりあえずやるので、失敗、失敗、また失敗…。前職でも失敗はたくさん経験しましたが、新しい場所での連続した失敗でわたしは自信を喪失していきました。怖々やる→失敗するを繰り返し、何をやってもうまくいかない。身動きが取れないような感覚の繰り返し。自分で決めて自由に行動していた前の自分など存在していなかったように思えて自分に価値を感じられなくなっていました。

この時期は、人生の中で最も精神的に追いつめられ苦しかった時期だと思います。

 

社内で先輩と何気ない会話をするときも、「何ひとつ成果を出していないわたしが、笑ったりしてはいけない」と普通に笑うことはできませんでしたし、お昼に社食でうどんを2本しか食べられない日もありました。通勤途中に乗換駅のホームで「今このまま飛び込んだらどうなるかな」なんて考えてしまうこともある毎日。さすがに自分でもこれはまずいなと感じ、産業医の面談を受けると心療内科の受診を勧められました。受診する医院を調べながらも、受診して「心に問題がある」と言われたらと思うと、怖くてなかなか受診する勇気を出せないでいました。

 

毎日「会社辞めたいな」と思い、前職の上司Tさんにもずっと相談していました。彼はきっとその時もわたしのことを信じてくれていたのでしょう。「お前はできるよ。辞めないでがんばれ」と言ってくれていたのですが、ある日のメールの返信に「そんなに辛かったら、もう辞めていい」と書かれていました。

これで、わたしにスイッチが入ります。

「この人に辞めていいって言われるなんて、わたし相当ヤバイんだ。『お前らしくやってこい』って信じて言ってもらえる状態にしないと」と切り替わったのです。

この切り替わりが医学的にいいことかどうかわかりませんが、信じてもらえる威力って、本当にすごいのだと思います。ここに至るまでに2年近い時間がかかったように記憶しています。

 

幸い、当時の上司も転職組の方でわたしの話を時に涙ぐみながら親身に聞いてくれました。今自分の中にどんな違和感があるのかや「わたしだからできることをしたいと思っている」などコミュニケーションの機会をいただいて自分なりに伝えるようにしました。

上司は、わたしが考えていることを汲み取ってくださり、わたしの考えが活かせるような仕事にアサインをしてくれました。本当にありがたいことです。上司や先輩、同期の助けも借り、少しずつできることが増え、時間をかけて心身ともに健康で仕事ができるようになっていきました。

 

この強烈なLOW体験を通して大切な2つのことを得ました。

ひとつは未知の「痛み」を知ったことで、感情の奥行きが増したこと。もうひとつは、可能性を信じられている人が発揮できる力がどれほど強いかを知ったことです。できないことがあったとしても、その人自身はダメな人でも可能性がないわけでもなく、ただできないことがあるだけ。その人の価値自体は変わらないということです。これは、この先に社内で若手メンバーを育成する時やコーチングにもつながる大きなものとなりました。

 

とてもとても辛い痛みだったけれど、得たものから考えるとわたしには必要な出来事だったのだと思います。どん底のころの自分を少し客観的に見られるようになったころ、わたしにふっと降りてきたことは「人生ムダなし」というワード。今でもまさにその通りだと感じます。

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 07. 偶然の必然:コーチングとの出会い

 

その後、少しずつ経験を積み、転職して2〜3年目ごろからは後輩を育成する機会も得ていきます。毎年チームに配属される新入社員と新入社員を育成するトレーナーの育成していました。

 

この頃はまだコーチングに出会っていませんでしたが、前職の初上司から可能性を信じて関わってもらう経験を存分にしていました。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、自分が育成する立場になると同じように可能性を信じて委ねることを大事にしていました。

上司からは「任せておくと勝手に育つ〜」と言われ、その言葉をうれしく受け取ったこともありましたが、その言葉以上に、若手社員ができることを増やして自信をつけ、その人らしさを発揮しながら仕事をしている姿を見ることにとても喜びを感じていました。

 

また、赤ペン先生とコミュニケーションする際もある時から「なんでこの人は今この話をしているのかな?」と言葉の奥にあるものを意識するようになっていきました。その積み重ねにより、コミュニケーションが円滑になっていき、関係性もよくなることを肌感覚で学んでいて、「自分のコミュニケーションの取り方は強みなのかもしれない」とうっすらと感じるようになっていました。

 

同時に会社員として「評価され続けるため」「成長・変化し続け価値を発揮するため」に、自分に何かをプラスし続けないといけないと何かに追われているような感覚が常にありました。そのためのスキルや方法を探してもいました。そんな時本屋で偶然コーチングの本と出会います。

早速読んでみると「傾聴する」「YES/NOで答えられない質問をする」  などが書いてありましたが、学生時代にカウンセリングをかじったこともあり、すでに知っている感覚のことでした。それを会社で話していると、ある後輩が通っているコーチングスクールを紹介してくれました。「きっと好きだと思いますよ」というひと言を添えて。それがわたしがコーチングを学んだC T Iと出会うきっかけでした。早速ホームページを見たものの「コーチングとはつまりなんなのか、よくわからん」という感覚でしたが、信頼する後輩の紹介ということもありひとまず学んでみることにしました。

 

2011年1月。軽い気持ちで参加した「基礎コース」という2日半のそのプログラムは大げさではなく、わたしの人生を変えるきっかけになりました。後輩の「きっと好きだと思いますよ」はまさにそのとおりでした。

 

まずは、C T Iのコーアクティブ・コーチング がもつ人間観「人はもともと想像力と才知にあふれ欠けるところのない存在である」を知り、わたしはとてもとても許される感じがしました。子どものころから「自分には何かがたりない」と思い続けてきたし、会社員としても成果を出し、成長し続けないとわたしには価値がないと感じていましたが、「わたし」という存在自体は何も欠けていなくてこれでいいんだと思えたのです。

これに加えて、コーチングというコミュニケーションの方法は、わたしがやりたいと思っていた、メンバーが持っているものをひき出して、発揮してもらうためにピッタリ。「自分が探していたものはこれだ!」とピンとくるものがありました。

そして、それを伝えてくれるトレーナーもこれまでの研修で出会ったような講師しかりという雰囲気ではなく、とても自然なあり方で魅力的。自分もあんな風になりたいと感じました。

同時にふっと「会社を辞めるかもしれない」という直感が降りてきて「とんでもないことを考えちゃった」と、とても怖くなりました。当然です。会社員でないと価値がないと思っていたのですから。そして、コーチングを学ぶには思った以上に自分のことを話す機会がありました。そのため、当時は連絡を取ることもなく見ないふりをし続けてきた父親との関係を目の前に置くことも避けることができないなと感じました。

基礎のコースを終えると応用コースに進むことができましたが、このまま進むといろいろととんでもないことになりそうだと感じたわたしは、そのまま1年間コーチングと距離を置きます。

1年後再開することになったのは「やっぱり学びたい!」と思ったからではなく…。会社の評価シートの能力開発の欄に書いたままになっていた「コーチングをさらに学ぶ」に対して、当時の上司から「これはどうなってるんだっけ?」と確認をされたから、です。今にして思えばあの時確認されていなければそのままにしていたかもしれません。紹介してくれた後輩とともにこの時の上司にも感謝です。

これをきっかけにして、応用コースへ進み、コーチングをはじめとした自己探究の旅が加速していきます。

 

C T Iでの学びは講義を聞くスタイルではなく、コーチングを実践しながら学ぶ体験学習のスタイル。コーチとしての練習だけではなく、自分がクライアント役になる機会もたくさんあります。基礎コースに行った時から薄々感じていたのですが、コーチから質問をされるたび、わたしには不思議なことが起こりました。聞かれたことについての答えが自分の中から出てこないのです。難解な知識について聞かれているわけではなく、自分自身について聞かれているのに、です。周囲からの評価やどう見られるかということにばかり意識を払ってきたので、「わたしは」を主語にすることに慣れておらず、答えられませんでした。就職活動で感じた違和感の再来。そこから10年ほど経つのに何も進化していませんでした。道理で、20代半ばから「今後のキャリア」について考え続けても答えが出ないわけです。

 

そんな状態ではありながらも、応用コースでともに学んだ意欲的で魅力あふれる人たちにいい意味で巻き込まれ、わたしもコーチとしてもクライアントとしても体験と学びを増やしていきました。コーチングに対する感覚は基礎コースで感じたものと変わらずわたしにとって魅力的でした。

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Young Plant Growing In Sunlight.jpg

 08. 父と向き合う

 

応用のあるコースを受講中に転機が訪れます。トレーナーからコーチングを受けるクライアントをやることになりました。テーマは、わたしがともにいることができない「父との関係」についてです。わたしにとってそのテーマと向き合うことはとてもとても勇気のいることでした。その時わたしにとって父は、お金に困った時だけ連絡をしてくる面倒な人。父と関わると自分の人生を脅かされると感じる存在でした。だから、父との関係を自分の正面において話をすること自体ものすごく怖くて勇気が必要だったし、父との関係について自分が感じていることを口に出すことなど考えたくもありませんでした。でも一方で、それをずっと避けていくことはできないとも思っていました。トレーナーの方から「やってみませんか?」と声をかけられた時、いい機会というより「これを逃すと今後は難しいかも」と思ってYESと言ったように思います。

このコーチングは参加者全員が見ているところで、トレーナーからコーチングを受けます。10年近く経つ今でもその時の状況を鮮明に覚えています。見ている人はいるけど、それは全く気にならずコーチとわたしの2人の世界のように感じていました。どれくらいの時間だったのでしょうか。わたしはそのコーチング時間の中で言葉を発することはほとんどなかったと思います。ただただ自分の中にある感情と少ないながらに話すことやコーチからかけられる声を元に自分の体の感覚を感じていました。コーチもそんなに多くのことを口にしませんでしたが、わたしを信じてそこに一緒にいて、わたしのテーマに向き合ってくれることを強く感じる時間でした。

このコーチングが完了して、急に父との関係が変わったわけではないし、何かが解決したわけでもありません。でも、不思議なものでともにいられなかったものを見ることに飛び込んだことそのものが確実にわたしを変えました。明確に言語化できないけど、感覚として確実にそれはありました。もうひとつ、この経験を通してもっと自分のことを知りたい、というより知るべきだという感覚が強くなりました。周りからどう見られるかではなく、自分の人生を生きることに舵を切るきっかけにもなったと思います。

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 09. 「自分の」人生を取り戻し始める / 父の最期

 

トレーナーからコーチングを受けたその日の晩、わたしは1つの大きな選択をします。

コーチングを学んでいたC T Iが提供しているリーダーシップ・プログラムというプログラムへの申し込みを決め、申し込みボタンを押すというアクションを取ったのです。

 

このリーダーシップ・プログラムなるものは、リーダーシップとは一部の特別な人が発揮するものではなく、「すべての人がリーダー」であり、リーダーシップはすべての人に備わっているという考え方に基づいています。

このプログラム、事前に教えてもらえるのは、体験型であること、10ヶ月間の中に1回が1週間程度のリトリート(合宿)が計4回あるということ、金額が150万円程度ということぐらいで、内容の詳細は参加してみないとわかりません。申し込む数ヶ月前にこのプログラムの存在を知った時は「よくわからない研修なのに、これだけの金額を払って3ヶ月に1回、1週間も会社休むなんて…」と思っていました。結構普通の感覚だと思います笑

でも、デモコーチングを受けたその晩のわたしは、その時からはすでに変化していて、よくわからない自分のことを知り、自分を取り戻すためにわたしにとって意味があるもの・今必要なものと感じ、申し込みをしました。

 

当時、会社は年単位の大きなプロジェクトが走っていました。このタイミングは最後の1年に差しかかるところで最も山場のフェイズ。「3ヶ月に1回会社を休めるのか?」と疑問はあったものの、一緒に進めていた先輩もCTIで学ばれていたこともあり「すごい!いいじゃん、いいじゃん!」と賛成してくれました。さすがに上司のOKをもらうのは厳しいかなと思っていたのですが相談すると「なんとかなると思う」と承諾してくれました。

夫も「高いけど、一生使えると思ったら安いんじゃない?」と言ってくれて無事に道は拓け、「何も障害が起きないということは、こっちに進むといいよということなのかな」と感じたのを覚えています。

1回目のリトリート(合宿)に参加してみて、自分がいかに他人軸で生きていて、自分の人生を他者に明け渡していたかということを思い知りました。そのことに驚き、悲しく、自分に申し訳なくて涙が止まらなくなる瞬間もありました。それはわかったけど、それでも慣れ親しんだ自分を変えるのは勇気がいることです。でも、自分だけではなく、参加しているメンバー24人全員が自分の人生を生き、自分のリーダーシップを発揮するためにそこに集まっていました。わたしも恐る恐る、本当に恐々と自分の人生を生きることを選択しました。

そして、この10ヶ月の学びの中で自分のリーダーシップスタイルや強みを認識し、それを発揮することにチャレンジし、「わたしらしい」ということがどういうことかが自分でもわかるようになっていきました。その感覚は新しさというより「自分を取り戻す」感覚で、まるで鎧を脱ぐようにある種の軽やかさも覚えるものでした。

 

 

このプログラムに参加する少し前、仕事中に弟から電話が入りました。滅多に連絡してこない弟からの連絡は何か胸騒ぎがするものでした。直感は外れませんでした。「今日父と病院へ行ったらガンだとわかり、そのまま入院することになった」という報告の電話でした。この時すでに父と母は離婚しており、わたしはしばらく父に会っていませんでした。弟は「会いたくないだろうし、顔見るかどうかは姉ちゃんに任せるけど、俺は明日も病院行くから」とわたしに選択を委ねてくれました。

あまり迷わずに会うことにしました。

父はわたしの顔を見て「悪いね」と申し訳なさそうに言い、あとは普通の会話になりました。案外あっさりした再会で親子とはそんなものなのかもしれません。

 

父は、もう手術ができる状態ではなく、うまく付き合いながら生活していくことになり、一度は職場復帰も果たしましたが、その後再入院することになります。I C Uに入ったり、感染症のため全身麻酔で手術をすることになったり、目まぐるしくいろいろなことが起こりました。わたしと弟は担当医からもしもの時に延命をするかどうかを事前に決めておくように提案され、延命はしないことを決めました。父に残された時間はとても限られていました。

 

弟も驚いていましたが、わたしはその後週に1度は仕事の後病院へ通いました。

外に出ることはできず、1日ベッドにいる毎日は自分だったらとても退屈に違いないと思ったことと、残りの時間の中でできる限りコミュニケーションを取っておきたいと思っていました。

聞いておきたいこともありました。わたしが生まれた時にどう思ったかとか、なぜ料理をすることを仕事にしたのかなど、これまで聞いたことがなかったことです。

 

病院のベッドの上の父は「面倒を運んでくる人」ではなく、父というただの「人」でした。わたしはずっと、父がもたらす事柄に目を向けていて、父という人を見ていなかったことに気づきました。病院での父を観察していると看護師さんと仲良くコミュニケーションしたりしていて、こういうところは親子なのかもと思ったりもしました。

わたしの大好きなひな祭りの日、父は旅立ちました。

最期まで「仕事に復帰するんだ」と話していたそれは叶いませんでしたが、担当医は「感染症でICUに入った状態からここまで持ち直して過ごせたことが奇跡」だと教えてくれました。仕事復帰への意欲がそうさせたのかもしれません。

父が仲良くしていた新人の看護師さんは見送りの時に泣いていました。プロとしてはそれは好ましくないのかもしれないけど、わたしにはその気持ちがとてもうれしいものでした。

 

何年もまともに会話もしていなかったわたしたち親子の間にこの時間を持ってきた病をわたしはギフトだと思っています。あのまま元気だったとしたら、関係は今も変わっていなかったのではないかと思うからです。そして父の旅立ちは「もう何も気にしないで自分のために生きなさい」とそう言われているようにも感じました。

 

父を送るまでの間いろんなことが起こりましたが、不思議なことにリーダーシップ・プログラムのリトリート(合宿)期間への影響はなく、すべて参加することが叶いました。父も含めて世界からわたしがこのプログラムに参加し、自分の人生を生きることを応援されていると感じました。

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10. 人生最大のチャレンジ:会社員からの卒業〜独立

 

リーダーシップ・プログラムで自分と向き合い、自分は世の中に対してどんな影響を与えていきたいのか、どんなリーダーシップを発揮していきたいのかを考えることは、自然とこれからの働き方をどうするのかということへとつながっていきました。

 

わたしにとって働くことは自分自身を表現すること。就職活動をしていた大学生のころから結婚しても出産してもずっと働くというある種揺るぎないものがありました。

でも一方で、自分が本当に何をしたいのかがわからず、20代のころはいろんな資格を取得したりしましたが、それを実際の仕事とするところまでには至りませんでした。コーチングに出会って少しずつ自分のことがわかっていったものの「自分が本当にやりたいことは何か」の答えはわからないままでした。

そのころも会社では若手メンバーを育成する役割を担っていましたが、一番大事にしていたことはメンバーの可能性を信じて委ねることでした。もちろん、場合によっては教えることや自分の意見を伝えることもありましたが、できる限り委ねられる幅を増やせるようにチャレンジしていました。わたしとメンバーの会話でわたしの発することの多くは「あなたはどう思うの?」「どうしたい?」「じゃあ、それやってみよう」でした。メンバー同士が「相談してダメって言われると思った?笑」と話していたこともあるほど、引き出すこと、自分の描くものを経験してもらうことを大事にしていました。もし、上手くいかなかったとしてもそこに必ず学びがあるし、いざとなれば、自分が初めての上司にそうしてもらったように、自分が責任をとってリカバリーすればいい。そう思っていました。

そんな毎日を過ごす中で、自分が本当にやりたいことはまさにここにあることに気づきました。それは、相手の可能性を信じて関わり、変化・成長を支援することです。企画を立案したり、予算を考えたりする仕事ももちろんありましたが、そこへの関心はあまり高くなくて、「人の成長を支援することだけが仕事だったらすごい幸せ」その想いが強くなっていきました。長い間探してきましたが、毎日やっていて、当たり前過ぎて、灯台下暗し的に気づいていなかっただけでした。

そんな想いが強くなっていったころ、9年担当した仕事を離れることになりました。また、会社の方向性も転換していくタイミングに差しかかる中で、ここでのわたしの役割は完了したのかもと感じるようになりました。「会社」という枠組みから外に出て、コーチングを含め自分がやりたいことをやっていこう、そういう流れだなと思いました。1〜2年前までは会社員でないと価値がないと思っていた自分がこんなことを考えているなんて、という驚きもありつつ、その気持ちはゆるぎありませんでした。コーチングの基礎コースで「会社辞めるかも」と思ったことがまさに現実になろうとしていました。

夫は会社員でなくなることには大反対でしたが、リスクをとっても自分がやってみたいことをやってみよう、ダメならまた考えればいい。そんな軽い感覚で退職をします。2014年の9月のことでした。

会社員時代は、旧姓を名乗っていたこともあり、水田真由美という名前で、個人として働く新章がスタートしました。

 

退職する時に決めていたことは、2つ。

1つめは、人の成長・支援に関わる仕事をすること。そして、2つめは特急列車のような毎日からスピードを少し緩めて、季節を感じながら暮らしも大切にすることでした。

 

コーチングはその中に含まれていましたが、わたしの役割はコーチだけにとどまらない感覚があり、「コーチになるために辞めるわけではない」と当時よく言っていました。

今でも、コーチであることは人の成長を支援するために、今の自分に最も合っている方法のひとつと考えているところがあります。

 

平日に会社へ行かなくなり、昼間に街に出てみると自分が思っていた以上に人がいて、「自分が知っていた世の中ってほんの一部だったんだな」なんてことに気づき、見えるものが変わっていきました。

 

不思議なもので会社員であるということを手放したことで、いろんなものが入ってきました。コーチングの新しいクライアントはもちろんのこと、これまでやったことがない研修講師の仕事などの機会も得ました。「会社員でないと価値がない」と思っていた自分が個人で仕事を得られることに喜びと驚きがありました。ストレッチしないといけない仕事も多かったですが、その機会もありがたいものでした。

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11. 未知との遭遇:妊娠〜出産

 

小さい頃から子どもが好きで、仕事も子ども関連のことを長くやっていました。そして、自分も結婚したら子どもがほしいと思っていました。仕事を考えると「いつがいいのかな?」と思っていましたが、そのうち自然とくるものだと思っていました。でも、全然やって来ることはなく、会社の先輩や同期、後輩もどんどん産休に入っていき、自分はその分の仕事もカバーする毎日。素直に「おめでとう」と思えなくなっている自分のことが嫌になったし、「なんでこんなに子どもが好きなのに、赤ちゃんは来てくれないんだろう」とヒステリックに夫に当たったことも何度もありました。自分が受けるコーチングのテーマになったこともあります。

 

独立してからもこのことは気になっていましたが、結婚から5年ほどの月日が流れており自分の中でも見方が変わっていきました。というよりも変えていきました。

「こんなに子どもが好きなのに、わたしのところにはやってこないということは、わたしは自分の子どもを育てるんじゃなくて、それ以外の人の成長を助けてってことなのかも」そんな風に思い、より仕事にギアを入れようと仕事に対してのモチベーションが上がっていました。

 

とても長い時間をかけてそこまでたどり着きました。ある意味子どもを産むことに執着していたと言えると思うのですが、その執着を手放したことが良かったのか、程なく妊娠していることがわかりました。

しばらく前なら、特に会社員時代だったら、飛びあがって喜んだと思います。でも、この時のわたしの反応はそれとは真反対。「せっかく動き出したのに、なんで今なの…」産婦人科からの帰り道にショックでとぼとぼ歩くわたしに夫は声をかけることもできない、そんな様子でした。妻の意外な反応に彼も素直に喜べなかったと思います。

 

ショックを受けながらも、しばらくすると自分のお腹の中に子どもがいることを嬉しく思う気持ちも芽生えてきました。動くことに気づくとなおさらです。

でも、すでに個人事業主の身。産休・育休は制度としては特にありません。仕事をしなければただの「休み」です。さぁ、どうする?産後もどうする?保育園入れる?

未知の体験に向けて自分はどうしたいのか、向き合う必要がありました。

 

自身がコーチングを受けていることが最も良かったと思う時期のひとつはこの妊婦時代です。妊娠した戸惑い、身体の変化、母としてどんな自分でありたいか、仕事はどうする?など話題に事欠かず、です。自分の感情を味わい、大事な価値観を確認することを何度も繰り返しました。当時のコーチは男性だったのですが、お互い出産したことないもの同士、未知のことに対して純粋に好奇心を向けてこのテーマを扱えたことはとても良かったなと感じています。

 

幸い、つわりらしいつわりもなく、体調はいつも通りだったので、コーチングの仕事も、講師の仕事も予定通りにやることができました。コーチングは出産する1週間前までやっていました。

 

産後の仕事については、生まれる前にはどうするか決めないことにしました。

わたしにとって出産は初めてのこと。仕事は自分にとって大事なものですが、子どもの顔を見て、育ててみてどんなことを感じるかは生まれてこないとわからない。もしかしたら、「仕事なんてもういい。子育てを中心に据えたい」と思うかもしれない。だから、生まれてから決めればいい、そう思いました。産休も育休もないので、自分で決めることができます。だから、決めないことを決めました。

 

出産時は37歳。主治医に何度も高齢出産だから大変と言われていましたが、お腹の子どもに毎日話しかけて打ち合わせしていた通り、入院してから5時間での超安産で、2016年に母になりました。

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赤ちゃんの握り

12.「思ってたのと違う…」暗黒子育てのスタート

 

入院中は母子別室なこともあって、朝子どもに会えることが楽しみで楽しみで仕方ありませんでしたが、家に帰ると一変。夜はそこそこまとまって寝てくれましたが、そのせいか昼間はあまり寝ることはなく、寝たとしても抱っこ。ようやく寝たと思って座ると起きる…という育児あるあるが日々起こっていました。過去からあんなに待っていた子どもだったのに、無表情でおむつを替えていて、あまり可愛いと思えないことに罪悪感を感じたりしました。

 

夜はそこそこ寝るといっても細切れ睡眠だし、毎日慣れないことをする上に、全部相手(子ども)のペースに合わせるということに疲れていたのだと思います。お昼頃によく「寝るまであと7〜8時間どうやって過ごすんだろう」と遠い目をしながら思っていました。軽いうつのような状態になっていたのかな、と思います。

 

それでも、なんとなくお互いのペースを掴み、子どもの成長を感じる余裕も出てきました。

産前のクライアントさんやコーチ仲間が何人もお昼ご飯を持ってきたり作ってくれたりして助けてもらいました。抱っこ紐で出かけて靴紐が解けてしまい、かがんで自分で直すことはできないのでやむなく交番で結んでもらったことも笑。 人に助けを求めるのが苦手で、なんでも自分でやろうとするわたしの新しい挑戦でしたが、手を伸ばせば助けてくれる人が多いこともわかりました。

 

仕事をどうするかは産後に決めようと決めていましたが、迷うことなく仕事して自分を表現する時間がほしいと思うようになりました。フリーランスの保活は、なかなかハードルが高い面もありますが、ご縁あって入園が決まり、8ヶ月の休暇を終えて仕事に復帰します。

 

この時、新しく決めたことがあります。働く時間についてです。

産前は、昼も夜も週末も、コーチングをしていましたが、ここから先は保育園の時間を仕事時間にすることに決めました。わたしにとって仕事は大切。でも、子どもとの時間も大切。子育ては大変な時もありますが子どもと過ごせる時間は期間限定。だから、心にスペースを持ちながら仕事をし、子どもとの時間もゆっくり過ごしたい、そう思ったので平日の日中に限ることにしました。

コーチングのクライアントさんは、会社員の方も多いので、これは結構チャレンジングな面もあり、正直「うまくいくのか?」と自分でも思っていた節がありましたが、決めると不思議とそのような流れができるもの。「自分がどうしたいか」で決めることの大切さを改めて感じた決断でもありました。

子どもが授からないことに思い悩んだこともありましたが、今にして思えばわたしが自分自身と向き合い、本当にやりたいことを仕事にする日まで息子は待ってくれていて、一番いいタイミングでやってきれくれたのだと思います。

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13. いまいる場所

 

2021年、社会人になってから20年が経ちました。

今は、コーチングでは女性クライアントさんを中心にご縁が広がり、年齢がかなり下の方も増えてきました。皆さんいろんなステージにいるけれど、自分のことを大事にしようと思ってコーチングを受けることを決断されています。会社員で若手メンバーをマネジメントしていたころと変わらず、「あなたはだいじょうぶ。可能性にあふれているから」と思いながらかかわるその時間に幸せや喜びを感じています。

加えて、独立するころには考えてもみなかったような、企業や保育園などでの研修のお仕事や、企業の新入社員や中堅社員の方々への1on1、大学生へのメンタリングの機会などもいただくようになりました。お金も人脈もあったわけではないけれど、自分が何に熱があるのか、どんなことをやっていきたいのか、それを自分の中に閉じ込めておくのではなく、機会あるごとに伝えていたことと、ご縁が今ここに運んできてくれています。

息子とも言語でのコミュニケーションがかなりスムーズになって楽しさを感じるし、日々新鮮な視点に気付かされることも多いです。育児にもコーチングで学んだ人間観やスキルは生きていて、日々人間力の筋トレをさせてもらっています。

日々「いまの自分が一番いいな」と思いながら生きています。

ここから先も、未来を意識しながらも「いま」を大切にして、自分の人生を切り拓き続けていきたい。そう考えています。5年後、10年後に今は想像もできないであろう、どんな景色が見えているのかとても楽しみです。

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2021年6月

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