自分史~My story~

わたしは、わたしがこれまでに体験してきた自分のすべてを使って活動しています。

そんなわたしのことをより知っていただくために、自分史を書きました。よろしければお読みください。

   Tさん退職時に、同期と

  3歳ころ  弟と近所の公園で

コンテンツメニュー

Episode01.「いい子」で人のことを優先していた中学卒業まで

1979年1月2日 この世に生をうけました。

子どものころの1月2日は年賀状も新聞もお休み。お店もどこもお休み。

「母よ、どうせなら元旦かもっと普通の日に産んでほしかった」と

贅沢なことを想っていた子ども時代。

父・母・3歳年下の弟ひとりの典型的な核家族の家庭で育ちました。

 

3歳で弟が生まれるとき、父といっしょに毎日病院へ行ったこと、

毎日カレーを食べさせられていたことが人生はじめの記憶。

髪がなかなか伸びずよく男の子に間違われていたとか。

 

わたしが小学校に入り、母がパートに出るようになりました。

母は「子どもが家に帰ったときに誰もいないとかわいそうだから」

と考えたようです。当時、父は早朝に出勤し、夕方には帰宅していたため、

その帰宅を待ち、夕方からお寿司屋さんで働くように。

この環境はわたしに大きな影響を与えることになりました。

 

この頃、弟は3歳。まだまだいろいろとお世話の必要なお年頃。

(わたしだって6歳だけど)父は朝が早いので早めに寝てしまうため、

弟の面倒は基本私がみることに。熱が出ればタオルで冷やし、

小学校のおはじきにつけるお名前シールもわたしが書きました。

宿題の面倒もみて、いろんな話も聞いてあげる。

テレビを見て一緒に大騒ぎもしたけれど、気分はもう一人のお母さんでした。

 

弟はわたしが結婚するときに「半分はおねえちゃんに育ててもらった」と

感謝の意を伝えてくれたけど、わたしも実際そう想っています。

(母には「お母さんよりおねえちゃんのほうが怖い」と言っているそうで)

 

こういう環境で育ったので「自分のことは自分でしないといけない」

「人にはできる限り、心配・迷惑をかけてはいけない」と思い、

周りの空気を自然に読み、なんでもちゃんとやって、

自分より周りを優先するようになっていました。

周りの大人の人にはほぼ100%「しっかりしてるわね」と言われましたが、

全然うれしくはありませんでした。

 

反面、はっきり意思表示をすることもありました。

小2の頃、かなりのロングヘアーだったわたし。家庭訪問で担任の先生に

「そろそろプールの時期で、長いと大変だから少し切ったらどうですか?」

と言われたところ「いやです。」ときっぱり言ったこともありました。

 

本と図書館が大好き。書道教室に通いながら、アナウンサーになることに

憧れる子どもでした。

<働いてお金をもらうことを初めて経験>

15歳になり、都立高校へ進学しました。

わが家には金銭的な余裕がなかったので、自分のお小遣いのために

高校入学後すぐから下北沢のファーストフード店でアルバイトを始めました。

 

最初の時給は700円!当時としても安かったと思います。

はじめは「いらっしゃいませ」って大きな声で言うのも恥ずかしかったし、

人見知りゆえ休憩室でいろんな人と一緒になるのがイヤでしたが、

高1の夏休みころには同級生の仲間もでき、大学生の先輩とも仲良くなって、

アルバイトに行くのが楽しくなっていました。

 

初めてバイト代をもらったとき、うれしくてうれしくて家までのたった2分を

惜しみ、銀行脇の公衆電話から母に電話して報告したのを覚えています。

その額18000円ほどでした。

うれしいことの一方、自分のミスが原因で「あんたこれで金もらってるんでしょ!

このブス!!」と、お客様からフライドチキンの袋を投げつけられたことも…

お金をもらって働くって大変なんだ、と苦い経験もしました。

 

結局このアルバイトは大学を卒業するまで7年間続けました。

お金をいただいて責任をもって働くことの基礎を学び、

今もつきあう大事な仲間を得ました。

 

 

<相変わらずのきっぱり物言い>

一方、高校時代もはっきり物を言うところは衰えを見せず。

わたしの高校の体育着は高校生にもかかわらず、ブルマでした。

思春期なのに、あのパンツの大きいのを…

高3になり、新入生の体育着はショートパンツに変更に。

体育準備室へ行き「わたしたちも変えていいですよね」と先生へ

確認すると理由も言わずにただ「他の学年はダメだ」と。カチンときた

わたしは「あ~、先生がブルマ姿をみたいから許可してくれないってことですね」

と反論。あっさり許可されました。先生(はい、男性の先生です)ごめんなさい…

 

 

<将来について>

進路については高2くらいから考え始めていました。

そして、「手に職をつけないといけない」と思っていました。

わが家は子どものころから金銭的に余裕がなかったので、

きっとどこかで「お金の心配をしなくてよくなりたい」

という気持ちがあったんだと思います。

 

子どもが大好きなわたしは、幼稚園の先生になろうと思っていました。

でも、ピアノが弾けないので、ピアノの練習室が整っている専門学校へ

行こうと、早々に受験する学校も決めていました。けれど、ふたつのことが

浮かんできました。

 

ひとつは、自分なんかが教育に携わっていいのかという不安。

就学前の子どもに大人が与える影響は大きく、自分にそんな資格が

あるのかと考えていました。幼稚園のやさしかった担任の先生に言われた

一言で、ひとつだけ今でも忘れず残念だったと思うことがあります。

先生側には何気ないことでも、子どもにとっては傷になる可能性さえある。

わたしにそんなことできる?と恐れすら抱いていました。

 

もうひとつは、この先、少子化になるのにだいじょうぶかな、というもの。

金銭的な安定を求めていたので、ひっかかったんだと思います。

このころのわたしは自分の可能性を信じていなかったこともあり、

やりたいことではなく、できることを探してしまっていたのですね。

 

じゃあ、何をするのか。

相変わらずアナウンサーへの憧れもありながら、人の相談援助をする仕事にも

興味がありました。カウンセラーやソーシャルワーカーといった仕事です。

そのために、社会福祉学を学んで社会福祉士を取ろうと決意。

「やっぱりわたし大学受験することにする~。お金は自分で払うから」

と言ったわたしに母が戸惑っていたことをいまでも覚えています。

授業料は奨学金をいただこうと考え、担任の先生と相談のうえ、試験を受けて

無事に奨学生となれることになりました。自分で納得して決断すると、

その行動力はなかなかすごいなと自分でも感心します。

 

志望していた東洋大学の社会福祉学科は、福祉学のほかに希望すれば

社会学、心理学、図書館学を学ぶことができることに加えて、

送られてきた学校案内の表紙がムーミンだったことも気に入っていました。

入学前から何を履修するかを考えてとてもウキウキしていました。

 

 

<やってみないとわからない>

大学受験は決めたものの、家計に余裕はないので塾には行けず、

バイト代で通信教育を受講して勉強していました。

高3の夏ごろ、東洋大学の社会福祉学科ではめて一般推薦入試が行われる

ことを知りました。ただし、定員数7名。当時、社会福祉学科のある大学は

そこまで多くありませんでした。

 

そのため、「志望者たくさんいるだろうからわたしにはどうせムリ」と

受けもしないうちからあきらめていました。

ある日、友人にそのことを話したところ

「合格するかもしれないんだから、ダメもとで出してみろよ。

受かればラッキーじゃん」と。軽い感じで言われたので、

「まぁ、そうかも」とわたしも軽い気持ちで受けてみることにしました。

 

書類選考では短い作文をいくつか書いて提出することが求められ、

国語の先生に見ていただき締め切りギリギリで提出。

書類が無事に通り、小論文試験と面接へ。小論文のテーマは、高齢者福祉

についてでした。試験の直前、友人と学校の図書館へ行ったときに

高齢者福祉の本を偶然手に取り読んでいたんです。

「なんてついてるんだろう」ってそう思いました。結果、見事合格!

先生もまさか合格すると思ってなかったんでしょうね(笑) 報告に行ったら、

驚きつつも本当に喜んでくれました。そして、友人は

「俺のおかげで大学合格できたな」と。はい、そのとおりです。

 

やってみなきゃ、わかんないってことを学びました。いまにして思えば、

軽い気持ちで挑戦していて、「これに受からなかったら…」という風に

執着していなかったことが母校との縁をつないでくれたのだと思います。

 

 

<大学に来る人たちって…>

1997年、東洋大学社会学部社会福祉学科に進学しました。

キャンパスは埼玉の朝霞にあり、通学時間90分。でもワクワクのスタート

でした。いつかやってみたいと思っていたけど「お金がかかるし」と

親にお願いできずにいたテニスにもサークルに入って挑戦することにしました。

 

全国から集まってきた同級生たちの多くは経済・経営・文学・哲学などを

専攻していました。わたしは「社会に出て実用的に使えることを学ばないと

意味ないのに、どうするんだろ」と思っていました。

いまにして思えば、偏った見方をしていたのだと思います。

 

社会福祉学は興味深くて授業には真面目に出ていたし、テニスの練習もして、

変わらずアルバイトもしていたけれど、大学時代に仲間たちとしたバカ騒ぎは

枚挙にいとまがありません。でも、あれも大学生だったからこそできたこと。

彼らと一緒にいて学んだことは「いまを楽しむ」ことだと思います。

わたしの考え方は「未来のためのいま」を生きることで、その「いま」は

あんまり重要視されていない。でも、「いま」を思いっきり楽しむことは、

純粋に楽しく、緊張感いっぱいに生きていたことにも気づきました。

何事もやってみないとわからない。

なにかをあきらめることは、自分をあきらめること。

Episode02.「働く」こと「いま」を大切にすることを知った高校・大学時代

<張り切ってスタートしたものの…>

福祉学科の学生の多くは、社会福祉施設などの現場に就職します。

ところが、ゼミの先生に「おまえは一般企業に就職したほうがいいなぁ」

と言われ、自分でもそう感じていたので一般企業に絞って就職活動する

ことにしました。

 

 

そんなわたしの就職活動の時期は1999年~2000年。

あまり景気のいい時ではなく、ひとつ上の人は「氷河期」と言われていたころ。

 

なんですが…わたしには「選ばれよう」なんて気はさらさらありませんでした。

「これから長く働くわけだから、ちゃんと選ばなきゃ」とそう思っていました。

そして、外見ではなく中身勝負だと思っていたので髪を黒く染め直すことはせず、

バッグも靴も就活用を準備はしませんでした。

「そんなことで落とす会社だったらこっちから願い下げだね」と本気で口に

していました…。そして、人事の人を見ては「人事の人があれじゃあの会社は

ちょっとね」なども。あぁ、恐ろしい。そして、とてもわたしらしい。

でも、大事なことに気づいていたなと思います。

 

でも、なかなか内定は出ませんでした。それは髪を染め直さなかったからでは

ないと思っています。自分のことがよくわからなくて、何をしたいのかが

見えないまま活動していたから。そして、自分に自信がなかったからです。

 

「ここで働いてみたいな」という会社もありましたが、志望動機がはっきり

しないし、なにより自分のいいところをアピールすることができませんでした。

アピール以前にまったく浮かんでこない。

ずっと自分より人を優先し続けていたから、自分のことがよくわからなくなって

しまっていたのです。それでも1社内定をいただいたのですが、なんとなく納得が

いかず活動を続けていました。

 

<わたしってほんとは何したいんだっけ?>

3年の3月を過ぎたころだったと思います。

急に「わたしってほんとは何したいんだっけ?」とつよく思った瞬間がありました。

そこでこれまでやってきた活動をリセットして、一からやり直してみることに

しました。そんな折、就職課のカウンターで、福祉用具のメーカーの本を

みつけました。「福祉に関連することがわたしの原点かも」と早速それを借り、

住所をもとに何社かへはがきを送ってみました。

 

数日後、1つの会社から届いた郵便。そのなかにはなぜか、

ベビーカーのカタログが入っていました。「ん?んんん???」

これが新卒で入社したメーカー、アップリカとの出会いでした。

「なぜ、ベビーカーのカタログ???」と思いましたが、アップリカ社の主力商品は

ベビー用品。グループに福祉用具の会社があったものの、そちらでは新卒の採用は

していませんでした。でも、子どもは大好きなわたし。これも何かのご縁だと

受験してみることにしました。

 

筆記試験では算数が全然できなかったのに通過し、

面接では副社長に待ち時間に読んでいた本について質問され答えたところ合格。

「本当は社長の面接があるんですが、日程があわなくなったので、合格ってことで」

ということで電話で内定をいただきました。

アップリカって他の会社となぁんか違うんだよな…という感触があり、

先に内定をいただいてた会社とどちらへ行くのかとても迷いましたが、

わたしの直感はアップリカだと言っていました。

先の会社をお断りし、就職活動が終了したのは、4年の8月の終わりでした。

Episode03.自分のことがわからないとつよく想い始めた就職活動の経験

わからなくなって、動けなくなったら握りしめているモノを

手放してみる。そしたら、自分に必要なモノが入ってくる。

<Tさんとの出会い>

2001年の春、新社会人として、アップリカ葛西株式会社

(現・アップリカ・チルドレンプロダクツ合同会社)へ入社しました。

10人の愛すべき同期と一緒に社会人生活のスタート。

大阪本社での研修を終え、当時、銀座にあった東京の支店へ営業として

配属されました。

 

ここでの初めての上司Tさんは、わたしの人生を変えた人のひとりです。

アップリカには当時、「アップリカ」ブランドのほかに、百貨店用の

「アップリカUN」ブランドがありました。「アップリカUN」

ブランドは、Tさんが立ち上げたものでベビーカーのフレームの色と

シートの色を自分で選んで組み合わせられるセミオーダーのベビーカー

を中心に、ジュニアまで10年使えるベビーベッドなど付加価値の高い商品を

販売していました。ベビーカーのシートのデザインはどれも本当に

おしゃれでステキなブランドでした。

 

7月に入ったある日。わたしともう一人の女性の同期が呼ばれ、

Tさんから、こんなことを言われました。

「8月から本配属で、ひとりはプロパー(アップリカブランド)、

ひとりはUNをやってもらおうと思ってるんだけど、それぞれが

やりたいほうをやってほしいから、どうするかふたりで相談して決めてくれ」

 

「!!!」

入社3か月の新人に自分たちで決めてって言った???

そう、Tさんは言ったんです。

 

入社前、UNブランドを担当している女性の営業の先輩に話を聴いていた

わたしは、UNブランドへの憧れがありました。でも、仕事を始めてみると

「プロパーを担当するほうがいいかなぁ」なんて感じていたところへの

Tさんの提案。

 

悩みに悩み…出した結論は、はじめの感覚にしたがって「わたし、UNやる!」

ふたりで決断した結果をTさんへ報告しました。

「決めたからにはやってもらうからな」という一言ともに、

UNの営業がスタートしました。

 

<好きにやってこい。責任は全部取ってやる>

Tさんのすごいところはこれだけではなく、新人のわたしにも

主力の店舗を担当させてくれました。

「好きにやってこい。なんかあったら責任は全部おれがとってやる」

という言葉とセットで。この言葉は、その後転職先で自分がチームを

もったときに、わたしが大事にしていたことでもあります。

この言葉が言えるのは、部下のことを信頼してのこと。

そして、任せたことへの責任もちゃんともつということ。

人生初の上司がTさんだったことは本当に幸運なことでした。

 

わたしは、本当に自由奔放にやっていました。

毎日会社へ行くのは楽しく、こんなワクワクする商品を売っているんだと

誇りをもってUNブランドを担当していました。

そのため、その後ついた上司の方針に納得できず

「そんなごちゃごちゃ言うんなら、こんなブランド明日から

やめちゃえばいんですよ!」などと言い放ち、上司を椅子ごと窓際に

吹き飛ばす、という相変わらず切れ味抜群の生活を送っていました。

あの頃、入社2年目くらい。怖いもの知らずで恐ろしくも感じますが、

それほどに一生懸命やっていた自分がいたし、

それを受け入れてくれる場であったことに本当に感謝しています。

 

 

しかし、そんな直球勝負が災いし、百貨店のバイヤーと言い合いに

なるようなこともありました。

わたしは悔しくて泣きながらTさんへ報告すると、Tさんは

「お前はまちがってることはひとつも言ってない。

でも、正しいことだけ言えばいいわけじゃない。」

「直球だけじゃなくて、変化球も覚えなさい。」と。

これまでもなんでもかんでもはっきりと言ってきたことは、

わたしのよさでもある一方、うまくいかないことがあることを

知っていた自分にとって必要なひと言でした。

 

そんなTさん、ヘッドハンティングされて別の会社へ移られました。

わたしもUNブランドや店舗運営は好きだったけど、営業職として

長く働くイメージが持てず、長く働ける環境でもっと深く人に

かかわれる仕事をしていこうと転職を決意。がむしゃらな4年間が幕を閉じました。

Episode04.信じられると自分らしくいられると学んだ社会人生活のスタート

人は信じてもらえると、

  自分の知っている以上の力を発揮できる。

<わたしってできないんだ>

2005年4月。わたしの新しい生活がスタートしました。

株式会社ベネッセコーポ―レーションで小学生向けの通信教育の講座

「進研ゼミ」の添削スタッフ(赤ペン先生)のマネジメントをする仕事に

就くことになりました。

 

より人とかかわりを深く持つ仕事をと思ってやってきた場所でしたが、

自由奔放にやっていたわたしにはとても慣れない環境でした。

「これが会社組織ってもので、前職はサークルみたいだったんだな」と

本気で思いました。

 

 

小学講座の赤ペン先生は、1万人ほどいらっしゃいます。1万人の人に

「進研ゼミ」がめざすサービスに共感・理解してお仕事していただくために

集合研修をしたり、文書で必要なことをお伝えしたりします。1万人いれば、

1万通りの受け取り方があるわけで、その伝え方も工夫が必要です。

誤解なくお伝えしたいことをお伝えするため言葉の選び方ひとつにも、

とても慎重になります。

 

手さぐりながら一生懸命やっていたなか、わたしはあることにつまずきました。

わたしという「存在そのもの」ではなくて、仕事が「できるか」「できないか」で

人の価値が判断されていると感じ、自分らしく振舞うことができなくなってしまったのです。

 

前職では上司を椅子ごと吹き飛ばすほど威勢のよかったわたしですが、

同時に子どものころから鍛えた「周りの空気を読んでいい子でいる」

自分も強烈にもっているわたし。行動しようにも「どう思われるか」

が気になって動き出せない。動けないでいるとまたそのことに注目される…。

産業医と面談をするようになり、残業も制限されました。周りの人に迷惑を

かけているなと思い、余計に悪循環に入っていきました。産業医に

「一度、心療内科へ行った方がいい」とも言われそのことにもショックを受けました。

 

<スイッチ切り替わりのタイミング>

Tさんにもずっと相談していました。「もう、辞めたいな」って。

Tさんはいつも「辞めないでもうちょっとがんばってみろ」と

言ってくれていました。でも、ある日「お前がそこまで言うんなら、

もう辞めてもいいよ」ってそうお返事が来ました。

 

このとき、わたしのスイッチが切り替わりました。

Tさんが「もう辞めていい」っていうなんて、わたしは本当にまずい状態なんだと

感じたのです。「だいじょうぶだから、もうちょっとやってみろ」と

信じてそう言ってもらえるように、がんばらないとと思いました。

 

そして、当時の上司は親身になってわたしに向き合ってくれたことも幸いでした。

わたしはできる範囲で、一生懸命自分が抱えていた違和感を伝えました。

営業をしていたときは担当営業の「わたしだからできること」をやっている

という実感がありましたが、新しい場所ではその感覚が少なく、わたしには

「わたしだからできる」っていう感覚が必要だということを伝えました。

新年度に上司はわたしの想いに沿った業務を担当させてくれました。

「わたしだからできること」は実際やってみると大変な仕事も多かったけど、

先輩や同期もわたしの気持ちをサポートしてくれ、少しずつ普通に

仕事をしていくことができる状態になりました。

 

会社へ行くことも辛かった毎日から普通に仕事ができるようになるまで

2年ほどかかったその強烈な体験は、わたしにとんでもなく大切なものを

持ってきました。

それは、なにかができるとかできないとかではなく

「ありのままにその人らしさを大切にするということ」です。

言い換えると、かかわる相手の可能性を信じて委ねるということ。

信じられていれば人は思い切って挑戦することができる。

そういうときは失敗さえも学びに変えて、自分の枠を広げていくことができる。

それはTさんから知らぬ間に教えてもらったことでもあったし、

この経験の間わたし自身が望んでいたものでもありました。

 

その後仕事をしていくなかで、赤ペン先生からわたしが担当でよかったと

言っていただいたことや後輩からわたしみたいになりたいと言ってもらえる

関係性を創れるようになったのは、この人生最大のLOW体験があり、

そこから大切なことに気づいたからこそ。ここからわたしが学んだ大事なこと、

それは「人生ムダなし」ということです。

Episode05.人生で最もしんどくて最も大切なことを学んだ、転職・その後の10年

人生ムダなし。

どんな自分も自分を磨く。

<とんでもなく許される感覚ととんでもない恐れ>

そんな日々を積み重ねるうち、自分のコミュニケーションの取り方は、

わたしの強みかもとうっすら思うようになりました。

自分のなかになんとなくあるこのことをはっきりした形にさせる何かはないかと

考えていました。そこには同時に「会社員として評価され続けるためには、

何かをONし続けないといけない」という強烈な思い込みもありました。

 

ある日、本屋をぐるぐるしていて「コーチング」の本に出会いました。

なぜ、それを手に取ったのかはよく覚えていません。会社でも「コーチになる」

とか「コーチングを学ぶ」と言って退職されているかたもあり、聴いたことある

なぁと思ったのかもしれません。

 

「傾聴」とか「Yes/Noで回答できない質問をする」とか書いてありましたが、

それはすでに知っていてやっていることでした。会社でそのことについて

話をしていたら、コーチングを学んでいるというチームメンバーがCTIという

コーチングプログラムを提供している団体を教えてくれました。

「きっと、好きだと思いますよ」と言う一言を添えて。

さっそくHPを見るもよくわからないという感覚でしたが、

ひとまず受けてみることにしました。

 

2011年1月。「基礎コース」という名前のその2.5日間のプログラムは

大げさではなくわたしの人生を変えるきっかけとなりました。

「『事柄』ではなく『人』に焦点をあてて人の話を聴く」ことや

CTIのコーアクティブ・コーチングのもつ人間感、

「人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」

そして、直感を使うということなどに触れ「あぁ、これでよかったんだ」と

ものすごく許される感覚がありました。また、そこでコーチングについて

伝えてくれるトレーナーのあり方もそのことをまさに体現していました。

自分が探していたものはこういうものだったと思ってうれしくもなりました。

 

同時に、とんでもない直感がわたしのもとにやってきました。

「わたし、会社を辞めるかもしれない」

そう思ったのです。

 

たった2.5日間です。それだけの時間で、なぜかわからないけど、

そんなことを思ってしまったことは恐ろしかったし、会社を辞めるなんて

とんでもない発想でそう感じたと口に出すことさえできませんでした。

このまま学び続けると自分の「パンドラの箱」を開けるような強烈な予感。

それを封印すべく、その後1年間はコーチングに触れることはしませんでした。

 

 

<学びの再開:みる必要のあったもの>

あれやこれやと言い訳をし、「応用コース」と呼ばれるコースに

行きませんでしたが、1年後に学びを再開しました。理由はカンタン。

会社の目標設定シートに「応用コースに行く」と書いていたからです。

 

でも、人生には必要なときに必要なことが起こります。

このタイミングで学びを再開したことで大切な学びの仲間や尊敬する

方たちと出会いました。相変わらず恐れはあったけどこの出会いに

助けられて学びを進めることができました。

 

コーチングに出会ってから、わたしはもうひとつ懸念を抱いていました。

わたしの中で見ないフリをしていたけど、いつか見ないといけないと

思っていたもの。「父との関係」でした。

 

この頃はすでに結婚していましたが、結婚前から両親は別居しており、

私は母と暮らしていました。そして、父とは連絡を取ることもして

いませんでした。連絡が来ることがあるとすれば、「お金をなんとかしてほしい」

というとき。父とかかわること=お金の不安がやってくるもので、わたしはそれが

とてもイヤでした。

 

初めてコーチングに出会ったときにあった「パンドラの箱をあける」

感覚のひとつにはこの「父との関係」があったんだと思います。

見たくないけど、確実にわたしの中にあって、無視はできないもの。

 

あるコーチングのコースで、わたしはそのことに向き合う決意をしました。

「いまを逃したら、タイミングはもうない」とそう思う瞬間だったのです。

決意したものの、口に出すことさえもできずとても多くの時間をかけて、

やっとそのことを口に出しました。

そして、そのことについてコーチングを受ける機会を得ました。

 

コーチングを受けた後、受けたからといって父との関係がよくなったわけではなく、

それが解決できるような何かを見出したわけでもありませんでした。

ただ、そのことに向き合っただけです。

でも、そのことに向き合ったことそのものがわたしに大きな変化をもたらしました。

 

その大きな変化とは、自分自身のことをよく知りたくなったということでした。

 

わたしはずっと不思議に思っていたのですが、自分のことがよくわかりませんでした。

たとえば「好きな○○なに?」とか「どうしたい?」と聞かれることはすごく

困ることで大抵わかりませんでした。同時によく自分の言動に対して

「あぁ、それまゆみっぽいわ」と周りから言われると自分でもなんとなくは

わかるものの、その「っぽい」の正体がわかりませんでした。

 

自分のことをもっとよく知って生きていきたいなと感じ、CTIが提供する

コーアクティブ・リーダーシッププログラムへ参加することを決意しました。

Episode06.コーチングとの出会い~本当の自分へ還る旅のスタート~

「恐い」、そう感じるときは

変化への扉を開けるとき。

<リーダーシッププログラムと父に向き合う時間のスタート>

リーダーシッププログラムは10か月間のプログラムで、3か月おきに1週間程度の

宿泊を伴う研修を4回実施します。会社員だったわたしは「そもそもそんなに

休めないかも」と思っていたのですが、「行く」と決めたら、上司も先輩も

理解をしてくださり、お休みをもらうことができました。費用も決して安くは

ないのですが、夫も「一生に割り戻したら安いもんじゃない」と快く賛成して

くれました。

 

事前にどんなプログラムかを教えてはもらえないため、そこについて説明する

ことができないのに、自分が「わからないけどいまこれなんだ!」と決めたら

道がすーっと開けていくんだと、そんな経験をしました。

 

 

参加を決意してからプログラムが始まる2012年11月までの間に半年程度の時間が

ありました。夏のある日、勤務中に弟から電話がありました。仕事柄、連絡を

取ろうとしてもなかなか連絡のつかない弟からの電話です。嫌な予感がしました。

予感は的中。父ががんを患っており、きょう弟がいっしょに病院へ行ってきたと

いう報告でした。そして、弟は「会うのイヤかもしれないから、どうするかは

おねえちゃんに任せるけど、俺は明日も病院行くよ」とそう言いました。

 

わたしはあまり迷わず会うことにしました。

病院での再会はあっさりしたもので、親子とはそういうものなのかもしれません。

父は「悪いね」と本当に申し訳なさそうに言い、普通に会話をしました。

父のがんは末期で、もう手術はできないとのこと。抗がん剤での治療を

選択しましたが、しばらくして退院し、通院しながら職場への復帰も果たしました。

 

 

秋が来て予定どおりリーダーシッププログラムへ参加しました。

とても密度が濃いこの1回目の研修でわたしは、自分がこれまでいかに

自分自身をおざなりにして人のことばかり意識してきたか、自分を小さくみて

大事にしてこなかったのかにに直面し、ものすごく大きな衝撃を受けました。

そして、これまでになく自分の中心に意識を向けていました。

 

1回目の宿泊研修終了直後、父が再入院しました。

ICUに入ったり、感染症のために手術をすることになってものすごい傷が

できたりといろんなことが起こりました。入院している病院は自宅から決して

近くありませんでしたが、わたしはできる限り行くことにしました。

父に残された時間は限られていました。

 

そして、病院のベッドのうえにいる父は「めんどくさいことを運んでくる人」

ではなく、父親というただの「人」でした。

わたしはずっと、父のもってくる事柄に目をやって、父そのものを

みてなかったんだなぁということに気づきました。看護士さんとやりとりしている

父の様子をみて、父も人とコミュニケーションをすることが好きなんだと思い、

うれしくもなりました。

 

 

<父の死ともらったもの>

わたしの大好きなひなまつりの日に父は亡くなりました。

最期まで退院して仕事に復帰するんだと話していました。それは叶わなかったけど、

お医者さんは、再入院後の状態から、あそこまで持ち直したことが奇跡的だと

教えてくれました。退院して仕事に復帰するのだという強い意志がそうさせたのだ

と思います。どんな状況でも自分の願いや可能性を信じた人は強いことを

見せてもらいました。

 

何年も会話さえすることのなかった父とわたしの間にこの時間をもってきた病を

わたしはギフトだと想っています。もし、いまも父が元気でいたとすれば、

関係は変わっていなかったかもしれません。わたしに素直になるチャンスをくれた

ギフト。そして、父から「もう、何も気にしないで自分の人生を生きなさい」と

言ってもらったと思っています。

 

 

リーダーシッププログラムの残り2回の宿泊研修は新しいスタートラインをきる

気持ちで迎えました。3回目までにプロのコーチになることを決意し、4回目の

研修が終了するときには会社員の生活を終えることも決めました。それは、

自分も含めた人のもつ願いや可能性を解き放つという、わたしのこの人生の目的を

生きるための決断。

 

 

そして、2014年10月に独立。プロコーチとしての道を歩み始め、

いまに至ります。

 

 

わたしのこれまでの人生は決していいことばかりではなく、

「なんでわたしだけ」と思ったこともたくさんあったし、

長い間自分の感情を置き去りにして過ごしてきてしまっていました。

でも、この人生だったからこそわたしのなかにある光も闇も自分の

全部を使ってコーチングを届けることに意味があるとそう想っています。

わたし自身も本当のわたしに還る旅を続けながら、

わたしの物語の続きを生きていきます。

Episode07.リーダーシッププログラムへの参加~父の死~独立

 

人生には自分に必要なタイミングで

必要なギフトが届けられる。

 

 
 
 
 
 
 
 

Copyright © 2014Mizuta Mayumi All Rights Reserved.

  • Facebookの - 灰色の円
  • Twitterの - 灰色の円
  • Instagramの - 灰色の円